循環型社会は理想郷か?

 

第6回島根大学・鳥取大学合同シンポジウム  平成12年 1月29日(土)
   「循環型社会の確立を目指して」

島根大学総合理工学部電子制御システム工学科 古津年章

 

あらまし

20世紀型の大量生産・大量消費の限界と地球環境への負荷が明らかになって以来、循環型社会への以降の必要性が叫ばれている。しかし一方では、経済面から急速な移行には消極的な意見も多く、更に様々な既存のシステムや権益の問題、技術的な問題もからみ、それほど社会システムの移行が大きな流れとなってはいない。その原因は、上に上げた経済的な問題の他に、我々の社会が目指すべき道は、単に循環型社会だけでよいのか? 将来は豊かになるのか貧しくなるのか? 様々な不確定要因が絡んでいるためと思われる。ここでは、市民レベルの「感覚」から再度循環型社会なるものを考え、その基礎となる思想は何か、循環型社会あるいはそれを目指す社会において、我々の生き方と価値観がどのように変わると思われるか考えてみたい。

 

1.        「循環型社会」への漠然とした希望

・循環型社会への情緒的思い入れ

  21世紀を目前に控え、我々は日本の未来に確信を見出し得ていない ――

最も大きな問題は、急速な科学技術と産業社会の発展、そしてそれらを支える政治・経済システムが、社会の精神的ストレスと教育の昏迷と環境破壊をもたらしている、という矛盾である。

だれもが、それを何となく感じながら、結局は短期的な経済的価値に縛られて、大きな方向転換を為し得ていない。これから日本は、いや世界はどうなるのか、という不安が社会を覆っている。当面の利益確保に追われながら、補正予算の振る舞い酒に酔いながら、誰もが沈没しつつある日本丸を感じている。

  しかし道はあるのだ。それは、我々の祖先が創り、維持・発展させてきた文化的・技術的、精神的伝統、豊かな自然環境を省みて、それを現代科学技術と融合させることである。言い換えれば、伝統的な循環産業、循環経済、地域自給型の自然共生システムを、産業革命以降、我々が開発してきた科学技術で再生させることである。そして、まだ見ぬ我々の子孫に、真に豊かな自然、産業、そして品格を兼ね備えた社会を引き継ぐことである。

                                                         ―― というような「コピー」を考えたことがある。

・循環型社会を目指す自治体の声明例(群馬県)

  私たちは、環境の恵沢を享受しつつ、様々な社会経済活動を営んでいますが、その結果、環境の許容量を超えるほどの環境への負荷を及ぼしています。

 今後は、大量生産・大量消費・大量廃棄といったこれまでの社会経済活動を見つめ直し、県民・事業者・行政のすべての立場の人による、環境への負荷の少ない循環型の社会経済活動が行われている群馬県を目指します。

              ―― だれもが一応納得できる(反対できない部類の)声明である。

 

3.循環型社会、循環型経済: 成り立つのか?

      現在の経済効率を考えたのでは恐らく成り立たないだろう。なぜか?化石エネルギーの偉大な力をふんだんに利用するのとしないのとでは大きな差がでるはず。

      しかし、未来世代まで考えた経済効率では、必ずしもそうは云えない。循環型社会というのは、現在の国際社会での「最適化」および未来まで視野にいれた「継続性」を重視する社会経済システムにおいて受け入れられるものと思われる。

では一体「循環型社会」なるものが受け入れられる要素があるのだろうか? どうも悲観的にならざるを得ない。 ではなぜこれだけ騒がれるのか?

 

4.何故 循環型を目指すのか?

節約は美徳?

  無駄を省く。ものを節約する。 だれもが自然に受け入れる考えである。 経済的な利益を考えただけか? 一方、経済的な利益のためには、無駄も厭わないご時世でもある。景気回復のためにはとにかく消費しろ、という掛け声。繰り返される道路工事。ちょっと古くなったら捨てられるコンビニの弁当や電化製品。すぐ溜まってしまう包装用プラスチック.........

   節約、資源を大事に、地球にやさしく....そんなことを考えていたら儲からない。気持ちはよくないが、経済利益を確保するため、競争社会を勝ち抜くため、経済成長のためにはやむを得ない。しかし、それは本心だろうか?

経済利益・経済成長の呪縛

  地球環境問題が大きく取り上げられてからかなりの年月が経ち、問題意識は多くの人々に植え付けられてきた。しかし現代の経済システムのパラダイムを根本的に変えるには至っていない状況と思われる。破局がきた後に自然環境が回復するという最悪の解決法を待つことが人間の本能からして唯一の道かも、などと悲観的なことを考えてしまうほど、経済的な利益の誘惑は強く、またそれが人間の本能であるのか、と考えてしまいがちである。

金持ち人格者、金幸福

  しかし、経済的な利益を上げることは、POWERは強くなっても尊敬の対象にはなりにくい、という面白い性質を人間が持っていることは確かであり、これだけ経済利益一辺倒の社会になっても、そのような性質が人間が保持していることは、「未来社会への責任」あるいは「継続性を求める心」というものが、人間の本能として存在するのでは? と若干希望を持つ根拠ともなっている。金持ちになることと幸福になることではないのは誰でも知っている。どんな生物も本能として、自分の種の保持と繁栄を求めており、人間がそれと類似の本能を持ってもおかしくないかも知れない。現代でも、豊かな自然は人間の共通の価値としてみとめられ、プラスチックの模造植物より本物の植物、ゴミでもプラスチックゴミが散乱していれば眉をひそめる人は多くても、木の葉が舗道を埋めても一種の秋の風物詩として捉えることもしばしば、など日常の人間の考え方ひとつにも、自然の中で生かされたいという本能的な考えを垣間見ることができるように思う。

循環システムは地球環境の基幹

  地球の自然環境は、太陽エネルギーを拠り所にし、水の循環を基本とする循環システムであり、人間を含めたあらゆる生物は、その循環システムの一要素として組み込まれている。人間以外の生物は、それらの本能的欲求が地球の循環システムに合致するよう最適化されており、それ以外は自然と淘汰されてきたものである。人間の欲求は本能的なものもあるが、人間しか持たない欲望に支配されて動いている。このような欲望が支配する現在の社会経済システムで、人間性(動物的人間性)を疎外されていると感じるのは、極めて自然な発想であろう。この辺りに、いかにして循環社会を実現していくか、という鍵がありそうな気がする。

人間の生物としての本能を生かす

  問題は、このような人間の本能(があるとすれば)を、どのように社会的に重要な価値あるいは人間社会の目的として位置づけるか、ということであろう。世代間倫理に基づく「継続型」、「循環型」社会の実現、考え方として崇高であっても、多くの人間にとって極めて達成が困難な、人間の本能から外れた難しい考え方なのか、あるいは大事に育てれば、人間誰しもそのような考えが持て、そのような考えで生活することで、人間としてのレベルも上がり、健康・幸福感の増大につながるのか? 私にはどうも後者が本当のように思える。

 

5.循環型社会、あるいはそれを目指す社会の実現のメリット?

  人間の持つ潜在的な感性のベクトルと循環型社会のビジョンがうまく整合がとれた場合、以下に示すような変化が期待される。この見返りは、過剰な富と欲望の制限であろう。

          ・環境保護(表面的)

動物的な感性の癒し

利己的、競争的な価値観からの脱却(人間としての精神的レベルアップ)

感性と理性のジレンマの解消

生態系と自然の循環を意識する生き方

「ローテク」の工夫が広い分野で光る社会

大規模集中から分散型・ネットワーク型へ

未来への希望、安心

結局全ては人間のために? 全ては日本のために? 全ては自分のために?

それでもよい、 節度をわきまえる社会システムであれば。

 

6.大学は何を目指すのか?

  山陰地方 ―― 20世紀型の産業経済的視点からみれば、最後進県であろう。しかし、そこには古い歴史に基づく文化遺産、それと同時に、森林、田園、河川、湖沼、海洋という多様で豊かな自然が共存している。このなかで、新しい世紀に、我々が持つべきビジョンと社会、そして発展させるべき産業の在り方を探り、かつ具体化してゆくことが、山陰の大学に課せられた使命である。例えば、大学で行うべき研究分野として次のようなものが考えられる。

複雑な科学技術の広がりによる統一的技術評価の困難さ à 循環させる 環境負荷の最少化(エントロピー使用の最少化ではない)、循環システムの副作用(新たな環境破壊)などに関する統一的な理論、現実問題への対応

価値観を変える(現在の経済的メリット à 継続性の重視)ための、哲学理論、経済・社会・政治システム論

循環システムの物理的基礎の確立、工学的な実現、社会システムへの反映をテーマとした物理系、工学系、社会科学系の連携

市民との協力(技術的な工夫、実施段階では大学だけではできない)

山陰地方を循環社会のパイロットプロジェクトの展開地域とする。

 

まとめ

1.「猫も杓子も循環型社会」 本当に経済的に成り立つのか?

現在の経済効率のみを考えたのでは恐らく成り立たないだろう。

しかし、未来世代まで考えた経済性を考えると、必ずしもそうは云えない。循環型社会というのは、現在の国際社会での「最適化」に加えて未来まで視野にいれた「継続性」を重視する経済システムにおいてのみ受け入れられるものと思われる。

2.なぜ「循環型社会」の考え方が受け入れられるのか?その根拠は?

  自分だけの経済利益ではなく、未来世代も含めた共通的メリットを考えている。すなわち、社会システム構成の基本理念のレベルが高い。 「凡人」にはなかなか受け入れがたいのか?

  上のような解釈もできるが、本質はもっと本能的なものではないか? 要は人間の生物としての「種の保存」を考えたとき、誰でもこのような考えに立って行動することで本能的な安らぎを覚えるのではないか? それは、地球システム自体が循環型であり、その循環の中で生きる地球上の生物としての宿命ではないか。その前提で社会システムを構築すること、あるいはそれを目指すことが未来への発展的考えの源泉になるのでは?

  人間の種の保存の本能と、循環型社会への思想は同じベクトルを向く。

3.「循環型社会」のメリットは?

  環境保護は表面的なメリットであり、人間の動物的な感性の癒し、感性と理性のジレンマの解消が期待される。循環型社会はの目指すところは、一部の「ハイテク」依存から、「ローテク」による幅広い工夫の結集、一極集中から分散型へのシフトであり、幅広い分野の活性化が図られる。その結果、未来への希望と安心につながるはずである。

  循環型社会へのシフトは、社会の様々な分野で既存システムとの摩擦を引き起こし、また過程において副作用が予期される。「そんなに単純なもんじゃないよ。」という話は大いに出てくるだろう。しかし、地球生物として人間が継続的に生きるためには、循環型社会への移行は必然的な帰結であり、自信を持ってその方向に踏み出すべきと考える。