増えた不燃ゴミに思う

H12.8.3 古津年章

 

 

 

4月から松江市のゴミ収集システムが変わった。燃えるゴミと不燃ゴミの区別が厳しくなり、分別収集も始まった。しかし一方何か割り切れない思いを持つ市民も多いのではないだろうか? 不燃ゴミがやたらに増えた.今までは不要のポリ袋でも出せていた燃えるゴミも今は専用の袋しか受け付けられない。買い物の度に出る大量のパッケージも、よく眺めてみれば、立派な形をしているし、何かに使えそう・・同種のものを集めて溶融し、精製すればまた新製品ができるであろうに・・それよりも,よく考えればパッケージのほとんどは不要とすることができそうである.

 

 もったいない、という言葉は、景気景気とさわぐ男からは聞かないが、近所のおかあちゃんやおばあちゃんからは絶えず聞こえてくる。何か行事がある度に出る大量のゴミ.どこか変だ、と思う気持ちは貧乏者のケチくさいつぶやきに過ぎないのか??  いや,これは人間として正常な反応と思う.

 

  自然の営みにゴミはない。全てが互いに助け、助けられることで循環している。枯れ草、落ち葉、屎尿、どれも微生物の助けを借りて、植物にとって宝物に生まれ変わる。一方人間は,自然が数億年かけて作り上げた化石燃料を、たった一回使っただけで気軽に捨て、資源を無駄にしている。このような文明は,決して進んだものとは言えない.少なくとも品格は高くない.

 

  例えば、PETボトルだけではなく,全てのプラスチックがリサイクルされるような仕組み.全てのプラスチックに種類表示マークをつけるだけでも大きな効果への引き金になるだろう.多くのリサイクルシステムは,経済的に引き合わないと一蹴されるが、我々は必要と認めれば,面倒な手続きをつくり,費用をかけるだけの理性を持っている.実行に移さないのは、自然や子孫が面と向かって文句を言わないことに甘え,単にサボっているだけなのだ.これは子孫への責任放棄であり、自然の恵みへの裏切りである。

 

そのような社会で、次世代を担う若者を育てられるだろうか?教育とは知識を詰め込むことではなく、変なゆとりを持たせようと,π=3とすることでもなく,今の社会を作っている大人自身の生き様を示すことではないだろうか? 万物に価値あり。人間社会もそれを実際に示してこそ、市民が希望と勇気を持つ、本当に景気のよい社会になるのである。無理矢理無駄使いをさせるしか能がない社会は、退廃社会でしかない。