原発容認に未来はあるか

H12.8月  古津年章

 

  関連市町村および島根県が全て島根原発の3号炉建設容認の態度を明確にした。当面の経済的情勢、すなわち補助金と原発関係の雇用、消費を考えると当然の決定かも知れない。しかし、この決定にいかなる長期ビジョンがあるのだろうか?

  原発はこれまでの、そして現在の日本の電力エネルギー供給に大きな役割を果たしている。その意味では、現在運転中の原発を安全に管理運用することは当面必要である。しかし、長期的には原発を廃止することが必然である。なぜか?

  経済面で原発の是非を議論すると、必ず自分の立場を有利にするよう味付けがなされた予測やコスト計算が登場するため、概して水掛論になる。しかし明らかなことは、原発自体、極めて危険な放射性物質を大量に使用し、廃棄する装置であるため、安全性を追求するほど、経済性はどんどん悪くなり、存在価値が失われる。経済的競争力を保とうとすると、安全性が犠牲になるという矛盾である。このジレンマは原発には限らないが、原発の場合、安全性欠如の結果支払わなければならない代償が極めて大きいことが問題なのだ。もうひとつの大きな問題は、当面の経済性を考えて原発依存性を増加させればさせるほど、その地域に住みたい、という魅力が失われる、というジレンマである。いくら安全性を主張しても、それが払拭されることは有り得ない。自然の循環と相容れない物質を、人間が本能的に避けることはやむを得ない。

 

 100年後、原発廃炉が林立する故郷、どのような印象を我々の子孫は抱くのであろうか?廃炉を奇麗に片づければよい? ということは、大量の放射性廃棄物を、どこかに捨てに行かねばならないのだ。どこがそれを受け入れるのか? 我々の子孫までを考えたとき、幸いその時代まで大事故が起きなかったとしても、子孫に有意義な資産を受け継いだ、と言えるのだろうか?出雲は、豊かな自然と古い歴史に育まれた、穏やかな、人情厚い土地柄。そこに原発廃炉の山、はどう考えても情けない。

  原発が安全なら、電力需要がある広島などの大都市近傍の海岸に設置することが最善であるはずである。それをなぜわざわざ僻地を選ぶのか?答えは明らか:危険性があるからである。原発を建設する限りは、だれかが危険を受け入れざるを得ない。その人数は少ないに越したことはない、ということなのだ。島根県は20世紀の高度経済成長の時期に過疎という問題に直面し、後進県という位置に甘んじることになった。しかし、それを克服しようとする努力が、再度原発立地ということで、地域としての魅力を下げ、21世紀における後進県への道をひた走る、としたら、笑い話ではすまされない。

 我々は、日本と地域の未来を頭に描き、今何をなすべきかを決断し、現状追認を否定する勇気を持つ必要があるのだ。原発立地を否定すると何が残るのか? 失業か過疎か。しかしそれを全県を挙げて乗り越える必要がある、ということなのだ。難しいハイテク施設で危険な仕事にストレスを溜めることではなく、地域の自然と農業と漁業と工業がうまく循環し、地域住民が、ローテクでよいから、決して豊かではないかも知れないが、自然環境と、仕事の創意工夫に子供達が心を躍らせられるような、そして旅人の心を和ませられるような地域作りに挑戦しようではないか?

  例えば原発施設にかける資金と人的資源があれは、新しいエネルギーが創出できる。それは「省エネ技術」である。もうひとつは、欲望を適切に制御できる節度と品性を備えた国民性を育成する努力である。エネルギー浪費を放置したままでは、自然エネルギーが原発の代わりにはならないのは明白である。しかし省エネ技術ならできる。30%効率を改善すれば、原発は大幅に減らせるのだ。真夏のピーク電力を平準化する電力需要コントロールができれば、更にマージンが生まれる。IT技術はここに使うべきなのだ。そのような省エネ技術は、けち臭い技術ではない。環境に負荷を与えない新エネルギーの開発である。省エネ技術は、ハイテクでも「ローテク」でも、多くの分野で取り組める。建設業界だけではなく幅広い広がりをみせる。島根・鹿島地域が、そのような省エネ技術開発のメッカになれば、発電所の建設を遥かに超える付加価値を持つ技術を創造できる。

  原発はこれまでのエネルギー供給に大きな役割を果たしてきた。優秀な技術者がそれを支えてきた。しかし時代は過ぎつつあるのだ。電力会社と関係技術者も、これまで蓄積された技術を基礎にして新しい技術開発に勇気を持ってすすんで頂きたい。受入地域側も、いくら補助金を積まれたとしても、いつまでも時代遅れの国の政策に従って、バカな目をみることはやめようではないか。長期的展望と未来への責任を明確にした地域興し、これが我々が取り組むべき課題である。